三月二十八日 晴れ後曇り

今日もつつがなく、実に平和な一日であった。というよりは静かで何もない一日であった。卒業生が抜けていった今、寂しさは隠せないがそれでも日常に冒険を求めて頑張らなければ。

っていうか、本当ならば今日の今頃看護婦さんとプチ合コンの予定だったのに、おあずけになった。あぁ、早くシヤワセになりてぇ・・・

三月二十七日 曇りのち雨

やっとドンキホーテを読破する。長かった。前編三巻、後編三巻からなる物語の主人公はもちろん、スペインはマンチャの英雄、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャである。彼は50才前後まではマンチャ地方の高名にして機知に富んだ郷士であり、また敬虔なキリスト教徒でもあった。しかし、「騎士道物語」なる、まあ今で言うとドラゴンボールとかの少年誌に載っていそうな漫画のようなジャンルにはまってしまい、読みふけったあげくにその物語の登場人物がその昔実在していたと思いこんでしまう。そして、自分も騎士道物語に登場するような「遍歴の騎士」となるべく、のどかな田舎の日常の中に冒険を探して躍り込んでゆく。

ドンキホーテは計三回遍歴の旅に繰り出すのだが、第一回はすぐに大失敗に終わる。そして、第二回から従士サンチョ・パンサをお供につれて壮大な旅へと出発するのである。ドンキホーテは騎士道物語を読み過ぎたせいで頭から妄想が離れず、小さな宿屋が立派なお城に見えたり、金ダライが伝説の兜に見えたり、そして最も有名なエピソードとして風車が巨人に見えたりしたせいで、一人でそれらと戦い、時には勝利し、時には大けがを負って退散する。

しかし、ドンキホーテはただの狂人ではない。深い知識と敬虔なキリスト教徒としての思慮から、時として素晴らしい意見を述べることによって人々から尊敬されることもあった。

あくまでもフィクションであり、ドンキホーテに感銘を受けては自分もドンキホーテのような狂人になりかねないが、彼には少なくとも打ち込むべき道と、それを貫き通す信念があった。

最近、日常生活がつまらないと感じている人は、アンテナをしっかりと伸ばして外に冒険に出てみてはいかがでしょうか。誰か友達と一緒に、田んぼで見つけた蛇に驚き石を投げたり、山で見つけた不思議な木の実をかじって渋さのあまり眉間にしわをよせたりといった冒険は僕も子供の頃に経験があります。ドンキホーテを読み終えて、あんなときめきをもう一度体験したいなぁ、としみじみ思うのであります。

三月二十四日 晴れ

実に気持ちのいい日だった。部屋もきれいになったし、アレルギーも治りそうだ。

明日は卒業式である。おそらく忙しくてこのページを更新できないだろうから今日のうちに卒業というものについて書き込みたいと思う。

心理テストのようなものをしてみよう。

「出会いと別れ、一体どっちのほうが多いでしょうか?」

読者がいると想定してこのページの一番下に僕の考えと感想を書いておきたいと思う。

三月二十一日 晴れ

黒瀬さんの引っ越しがあった。

渡辺(守)に昨日、最後の説教をした。それは、いい先輩を見つけて、その人の言うことをよく聞くんだぞ、ということだった。昨今の日本人は「仁義」というものをどう考えているのかは知らない。しかし、原田君と僕は渡辺にそういう「仁義」の部分を大切にしろと教え、むしろそれは僕が自分自身に言い聞かせているようでもあったかもしれない。

昼過ぎに黒瀬さんの引っ越しの手伝いに行った。昨日の黒瀬さんの様子を見ると不安だったからである。しかし、僕らが黒瀬さんの家に着くとすでに渡辺がいた。あいつだって僕たちと昨日遅くまで飲んでいたのに。「無礼な奴だ」とレッテルを貼られた配属当時から一年で見違えるほど立派になったものだ。改めて渡辺の卒業を心から祝いたいと思う。

家庭教師先の家族の人たちと中華料理をたらふく食べた。小林さんの卒業記念だ。

連日の飲み会は気分がいい。若鶏の唐揚げに甘酢をかけたのがうまかった。酒も沢山飲ませてもらったし。いいことづくめである。正式な中華を食べたのは何年ぶりだろう。涙が出そうなのは甘酢が目に染みたからだ。

三月二十日 曇り

研究室の大掃除と追いコンをした。一次会はダーツで盛り上がった。猪熊が川向先生のコップを取り上げて中身を飲み干したのには少々驚かされた。かぶきものめ。

二次会はリフレッシュルームで。三回生がおでんを作ってくれた。うまかった。このころには野黒美さんもぶっこわれていたが、それにもまして黒瀬さんは激しかった。

最初は「お前らと遊んでると、兄弟が出来たみたいで嬉しかった」と思わず泣けてくるようないいことを言っていたのに、しばらくすると「俺達は四つ子だぁ」など言い出した。それから、黒瀬さんのまわりの人間はみんな黒瀬さんと兄弟ということになり(黒瀬さんの認定により)、こりゃやれんわと思って僕は演習室の様子を見に行った。

演習室から帰ってくると黒瀬さんがひとりぼっちでお酒を飲んでいた。「俺、トイレ行ってくるわ」と言い残してどこかへ消えたが、発見されたのはなんと学生実験室の机の上だった。むき出しになった黒瀬さんの白いお腹を見ていると、学生実験の解剖される前のマウスを思い出した。

三月十八日 晴れ

満月だ。今日はとてもいい天気だった。

アメリカが国連を無視して戦争をするらしい。イラクがもし核を持っていたとして、それは最終的に人が死ぬから驚異になるのであって、その核があるかないか分からない(多分持ってるだろうけど)うちに人を殺しに軍隊を派遣するのは矛盾がないだろうか。

独裁国家が暴走するのは確かに怖い。だが、アメリカが世界の平和を守っているというのは本当だろうか。北朝鮮がミサイルを試し打ちしているのになんで止めないのか。なぜイラクが核を持つのか。それは、アメリカが今回のように無茶な喧嘩を振ってきたときに対抗するためだ。

アメリカは世界の平和までは守ってくれない。日本が北朝鮮のミサイルや、テロの標的となったことは肝に銘じておかなければならないだろう。

まじめでごめんなさい。本当に心が痛いんです。強者が弱者を押さえつけるのは。

三月十七日 曇り

二週間ほどいろんなことがありすぎてこのページを更新することすらできなかった。

就職活動は順調なんだか何なんだか良く分からないが、きっとどこかに自分を受け入れてくれる会社があることを期待しつつ頑張る。しかし、金がかかった。往復で一万二千円。それを三回。ホテルが五千円。同じく三回。食事は完全に外食。一食千円くらい。高いときには二千円もかかった。あと、こまごまとした移動、新大阪で詐欺にあったりなどして、十万以上はぶっ飛んでしまった。お父さん、お母さん。ごめんなさい。

あと、就職活動以外では、松田先生の還暦パーティーがあった。その日はラグビーの試合があってかなり疲れていたせいで、二次会はキャンセルさせてもらった。なつかしい顔もあり、なごやかないい雰囲気だった。自分が還暦を迎える時に、あれだけ幅広い年代の多くの人間に囲まれることはまずないだろう。ひとえに松田先生の人徳である。

そして、プラントもどきの会(黒瀬さん、原田君、大将)でかなり活発に活動したことも目が離せない。ボーリング、セガワールドなどのアミューズメントに加え、焼き肉、すき焼き(大将除く)、カレー、鍋、ガスト、吉牛、うどん等。そして、レンタカーを借りて博多でラーメンを食べて、屋台でおでんを食べて、帰りに広島で行列に並んでおいしいお好み焼きを食べて。こんなに楽しい日々を送ることはもうないだろう。今年で黒瀬さんは卒業だ。心から、ありがとうございましたと言いたい。しばしの別れは惜しいが、メンバーそれぞれの前にはそれぞれの道しかないのである。無論、黒瀬さんだけではない。今年卒業していく人全員と僕はこの一年間たくさんの思い出を作った。予餞会で長峰君が歌った「乾杯」の歌詞にある”語り尽くせぬ青春の日々”という言葉がぴったりとあてはまる。

この一ヶ月で黒瀬さんは5kg太ったと言っていた。僕は怖くて体重計にすら乗っていない。大将と旅をすると、その先には常にこってりとしたものがある。奴はコンビニに寄るたびにトイレに入り、コンビニを出るときに必ず食い物を手に出てきていた。「食う?」と大将が原田君にお菓子を勧めている時、むしろ食うなと言いたかった。

三月一日 曇り時々雨

明日からまた大阪へ行って来ます。

三月二十四日の続き

出会いの方が多いと思った人は、恐らく今現在、自分の目の前にある物事を正確に見て考えるタイプの人だと思います。なぜなら、現在において出会いの回数は絶対に別れの回数を下回ることがないからです。

出会いと別れが同じだと思った人は、直感的であるかもしくは数学的な思考を持っており、究極的な答えを求められるタイプの人だと思います。なぜなら、未来において自分が死を迎えるとき、今まで出会った人たちすべてと別れなければならないからです。この時、出会いの回数と別れの回数は正確に一致します。

別れの方が多いと思った人は叙情的で過去の経験を元に考えた人でしょう。出会いというものは偶然であり、一つ一つをさほど気にとめることはないですが、別れは必然であり、記憶に鮮明に残っていきます。日付や季節とともによみがえる記憶はどちらかというと別れの方が多いのではないでしょうか。なぜなら、別れの日というのはおうおうにして既に定まっており、これが別れを必然的にしているともいえるでしょう。

さて、僕はというと最初別れの方が多いと思ったのですが、すぐにこの問いに答えは出せないことに気が付きました。世の中にはこんな風に答えのない問いがたくさんあるでしょう。その時に自分の考えに固執せずによりおおくの答えを提唱していけることこそが人生を何倍も楽しむコツだと思います。別れを涙を流して惜しみ、別れを再会への期待へと変える。そして、このふたつの行為の前提は、その人を好きであることです。

僕はみんなを好きになります。