八月二十四日 晴れ

K.Y氏の「戦争論」を読んだ(漫画だといえばばれてしまうだろうか)。
今作は三作目となる完結編と銘を打ったものであっただけに、内容はかなり濃密にして端的であり、非常に読みごたえのあるものであった。以下に内容を要約してみる。戦争(特に大東亜戦争)を通して、現在に至るまでの日本とその他外国の歴史を描いた3冊の「戦争論」に流れるテーマは一貫して「愛国心」であり、日本という国から我々がふわふわと解離していく現状を憂い、また我々が現在まで直視する事の無かった(情報操作の影響もあるのだが)歴史に隠された影の部分に光を当てて、日本という国の素晴らしさを見直している。
過去に書いたイラク戦争開始時に覚えた不快感の正体も、本書を読んでようやっと分かった。
アメリカという国は比較的歴史が浅い。そして、移民の移民たる遺伝子を持つ彼らは非常に侵略的である。先住民であるインディアンを民族浄化に近い虐殺により排斥し、インディアン達は住み処を追われていったのである。
欧米諸国は黄色、黒色人種の土地を占領し、土着民族を奴隷化することで労働力を作り、そこから利益を吸い上げた。アメリカは植民地統治に失敗したために、自国内で一部の有力者が賃金で労働力を雇う資本主義を取り入れ、その結果現在のように多数の労働階級と一部の富豪階級の生活水準に格差が生じることとなる。
では、日本の場合はどうかというと、我々は約2000年の歴史を持ち、元来農耕民族である。チームワークを発揮しながら皆で助け合い生きてきた事を考えると、そういう一面では社会主義的な面がある。列強諸国が侵略を続ける中で、唯一日本人は植民地の住民にワクチンを打ち、読み書きを教えた。かつて日本軍が駐留した地域では今も日本語を話せる人が残っていたり、さらには親日家だという人が多いらしい。江戸時代の藩主達を例に挙げると、彼らは立派に藩を統治した。時代劇に見るような過剰な年貢の搾取などは実際にはほとんど行われていなかったという。それは、人の上に立つ人間はそれなりの道徳を持っていなければならず、その道徳の基準というものは日本人のなかに慣習としてしみ込んでいる感覚的なもので充分だったからだ。
キリスト教を信じる欧米人は、肉食である。彼らの感覚では食用動物(牛や馬)と自分たちとの間には確実に一本の線が引いてあり、植民地奴隷も食用動物達と同様の位置づけであった。一方で、日本人は八百万の神といって、米の一粒にまで神が宿ると信じてきた。農耕民族である我々にとって、牛や馬は農耕時の大事なパートナーであり、前出の我々とその他を区切るような境界線が非常にぼやけていた。この感覚こそが和であると思う。
さて、このような民族性の違いを踏まえて、大東亜戦争とイラク戦争を見てみる。大東亜戦争当時のルーズベルト大統領は親中家であり、日本を目の上のこぶと見ていた。それは、欧米諸国に混じって有色人種である我々の祖先が国際社会で脚光を浴びることは、有色人種を統治している欧米にとって驚異となったからである。特に日露戦争の勝利は大きな引き金となった。そこで、アメリカは今回のイラク査察のような飲みがたい条件(ハルノート)を強引に押し付けたのである。物資の乏しい日本において、石油の輸入を打ちきられることは死活問題であった。とうとう日本は勝ち目のないケンカを買わざるを得なくなった。イラク戦争もほぼ同様の口火の切り方であること、ブッシュがルーズベルトを崇拝していることからも、やはり彼らは伝統的にケンカの売り方を知っているということになる。
戦中は圧倒的な軍事力にものを言わせて、地上戦では火炎放射で民間人を焼き、空爆を行い、果てには原爆を投下した。この原爆投下は、日本が敗戦色濃厚となった状態での過剰な攻撃であったのだが、これによるショックで降伏が早まったというのは後にアメリカ軍部が後付けした理由であり、本当は世界にアメリカの力を示す、後のための布石であり、実験であった。イラク戦争においても彼らは圧倒的軍事力を世界に示したが、劣化ウラン弾など国際法に違反するような危険な兵器を使用したのはアメリカ側であり、フセイン政権はとうとう大量破壊兵器を使用することなどなく敗戦したことは皮肉であった。
そして、戦後処理だ。日本人は単一の民族であり、高い道徳精神と勤勉な労働力を持っていたために、さらに戦後は精神的支柱として天皇がいたために比較的統治が楽であっただろう。しかし、イラクはもともと個別に貴族の派閥同士の対立が有り、またイスラム教の宗派が二分しているために複雑な闘争が常に起きている。また、反米感情を多くの人が持っており、駐留している米兵が多数犠牲になっている。この戦後処理だけは、日本の場合と同様に「住民を再教育する」ことは難しいのではないか。
また、アメリカが勝利した後にイラクの要人を戦犯扱いすることも間違いであり、これは戦後日本でも行われたのだが、勝てば官軍というのは傲慢以外の何者でもない。アメリカは自由と正義の国であるが故に、今回のように利権目当てで戦争する前に必ず建前が必要になる。アメリカが正義なら、敵国は絶対に悪でなくてはならない。アメリカ国民はハリウッド映画でも見ている気持ちで戦争を見ていたのではないだろうか(そこまで浅はかではないと期待するが)。正義のヒーローが利権を単純にぶんどることが出来ないために、悪の国家を倒して世界に平和をもたらすというストーリー付けが欲しい。そこで、アメリカの戦後処理には敗戦国の戦犯として敗戦責任等すべてをなすりつけるための悪人を作り上げる必要性、そして一般国民の洗脳の必要性が生じてくる。洗脳とは、再教育という名で罪悪感と敗北感を植え付け、従来までその土地に根づいていた文化を壊し、過去からの脱却、民衆の「アメリカ化」こそが正しい更生であると教え込む。これはかつての日本でGHQが行った事であり、現代社会を見ればこの政策は見事に成功したと言えるだろう。イラク戦争後、さっそく女性達は顔を覆っていた布を脱ぎ捨てた。現地の記者はこれを「抑圧からの解放」と言った。しかし、観点を変えればこれは単なる文化の破壊ではないだろうか。
日本は北朝鮮の驚異に「手を汚さずに」立ち向かうためには日米安保条約が必要である。そのために、アメリカはかつて日本にそうしたようにイラクを侵略することに対して首相は真っ先に指示をした。しかし、アメリカは本当に北朝鮮から日本を守ってくれるのだろうか。
大東亜戦争敗戦までは、命を賭してこの国を日本人達は守って戦ってきた。それが、今ではアメリカにおんぶにだっこのせいですっかり骨抜きになってしまった。アメリカが守ってくれると思うこと自体幻想であろうが、その強い幻覚性にだまされて日本政府は日米安保条約を大切にしてきた。これさえあれば、有事の際には日本の自衛隊達ではなくアメリカの兵士達が代わりにケンカしてくれるはずだからだ。しかし、そろそろ我々も恐れるのをやめて、他国と同様に多少のリスクを負ってでも自分たちで日本を守っていく気概を持ってもいいではないか。かつて我々の先祖がそうしたように、日本の国、そして日本に住む家族や将来を担う子供達を生かすために、いざという時にはその身を捧げる覚悟をしようという意識を持つべきなのである。決して人は生きること自体に価値があるのではなく、むしろ何のために生きることを費やしたか、何のために死んでいったのかでその人の人生は浮き彫りになる。
アメリカの戦争における善悪二極説のような人工のいかさまイデオロギーに基づく社会はいずれ破綻する。現に現在も貧富の差や治安の悪化、公共的な道徳の低さに由来する弁護士中心の訴訟社会といった破綻の影は見え隠れしている。しかし、日本人の血の中に流れている「伝統」は2000年の時を経た慣習であり、その歴史の中で我々は高度な社会性を保ってきたことは理論的なものではなく経験的なものである。我々はこの「伝統」を守り、日本人としての道徳、日本人としての感性をこれから先の世代まで伝えなければならない。

長くなってしまったが、最後に。上記の内容はあくまでも過去の国家間に起きた話であり、特定の人種が嫌いだとかそういうことはない。ただ、自分が何人なのか、先祖がどのような歴史を持っているのかを知っておくのは、ナイフとフォークの使い方を勉強するようなものだ。世界はますます国際化していく。その中でそれぞれの人が自分のアイデンティティーをしっかりと持っていなければ、国際化はただの均一化にしかならない。我々の先祖が非常に優秀で愛国心を持ちあわせていたおかげでこうして現在のこの国で平和に暮らせていることに我々はもっと感謝し、誇りに思わねばなるまい。そして、我々の子孫もそう思ってくれるよう私達一人ひとりはこの国を守らなければならないのである。

八月十六日 晴れ

何か知らんけど夜中に目が冷めてテレビをつけたら、NHK教育で十代の人たちがしゃべってた。
テーマは「お金がなくては幸せになれない!]。
正直いろんな人たちがいるなぁ、と。
お金がある奴、ない奴も自分で稼いでいる奴も稼いでない奴も、やたらしゃべる。
金がなければ幸せになれないかどうかを語るには十代じゃ若過ぎる気がして、結構笑けた。
賢い奴もいるし、話にならない奴もいるけど、この人らはもうちっと年取りなよって感じ。
人に自分の価値観押し付け合っても堂々めぐりな訳で、さらに悪いのはその自分の価値観っていうのがまだ自分で客観的に見えてない。彼らのほとんどが自分の意見の良いところ、悪いところを分かっていない。
だから、他人の揚げ足をとった奴がまた誰かに揚げ足をとられての繰り返し。
ただ、ああやって必死にまだ見もしない将来について語る彼らの若さは羨ましいと思う。
僕の周りの人間を集めて二十代でこんな番組やったら、あんなに熱くは語れないだろうな。
なぜなら、リアルなことをいうと「あなたは今幸せですか?」という質問と、「あなたは今年収はいくらですか?」ということが具体的に聞けてしまうからだ。しかも、そんな人間関係を一撃でぶち壊すようなことを言う奴もいないし。せいぜい踏み込んでも「お仕事は何ですか?」とか、「奥さんやお子さんは元気ですか?」という言葉の端からその人の暮らしぶりを推測する程度で、それ以上は私的な話をせずにおくのが社会のマナーだろう。
彼らはまだ、自分の将来を自分の憧れる人間像と重ね合わせて夢を見ている状態な訳で(例えば、サッカーの中田選手みたいになりたい、とか浜崎あゆみみたいな歌手になりたい等)、彼らの年収や生活ぶりから幸せを勝手に想像しているだけに過ぎない。タマゴの殻の中で、「俺、何のタマゴか分からんけど、ニワトリにはなりたくないなぁ」とか言っているようなものである。でも、ニワトリとして生まれてしまえば、あとは頑張って生きていくしかないだろう。そうしているうちに、タマゴの中で思っていたよりも案外ニワトリ人生も悪くなかったりする。
自分が金持ちって思っていれば金持ちだし、自分は幸せだって思えば幸せ。それでもって、相手が貧乏で不幸だって思えば、自分の中ではそういうことになる。
「お前、俺より貧乏(不幸)だなぁ。」
「ほっとけよ、俺は俺なりに稼いでるし幸せなんだ。」
これで充分だと思う。ただ、病気などでお金は突然必要になることもあるので、多少はお金と幸せは今の日本では関係するかもしれない。病気の人に「生まれただけでも感謝しろ」なんて言えない。あくまでも病人本人が「俺は幸せだよ」と言えることが大切なのだ。
他人を値踏みしているやつは、人よりハードルが高いせいで、人より努力しないと金持ちにも幸せにもなった気がしない。「良い車ですね」とか、「幸せ者め」とか、相手を誉めてあげる時に一瞬でも妬む心があるなら、要するにまだまだ自分に修業が足りないのだ。
僕?ええ、幸せですよ。昔は夏が来るたびに「クーラー持っている奴らよりは絶対出世してやる」と思ったものですが何か?

八月十二日 雨


やぁ。久々の更新です。最近、のっぺりとしすぎて敢えて書くことが見当たりませんでした。
今日も特に書くことはないんすけど、なぜかカウンターだけは順調に回数を重ねているようで、どうもまだ見続けてくれている人がいるんだなぁと思うと、罪悪感いっぱいです・・・
そういえば、集中講義が終わりました。就職も何とかなりそうだし、卒業に向けて徐々に準備が整いつつあるのはいいんですが、どうも僕のことだし直前にどえらいことが起こるのは予想できるんですけどね。
最近は知恵の輪にはまってます。机の上にいくつか置いてあるので、暇な人は遊んで下さい。あと、毎朝ヨーグルトを食べるようになりました。何となく調子いいっすよ。
あ、それと先月でめでたく二十四歳になりました。

HPが12上がった。
MPが4上がった。
力が2上がった。
素早さが1上がった。

しかし、年食えばいいってもんでもないですな。
正直、素早さとか落ちてるんじゃないのかと書きながら思ってしまった・・・

あと、今日の昼に日野がガストで「よく考えたら、ステーキとフォカッチャは合わないっすよね」などと言っているのを聞いて「お前、アフォかっちゃ」と言いたかったが言えなかった。大人になるというのはこういうことなのか。